アルバム「物語山(ものがたりやま)」 : 群馬県下仁田町 1999(H11).02.22(monday)

1.
16:40
登山口
駐車スペースはわずか

2.
第二炭焼き釜。
木琴石の登山道

3.
17:15
鞍部
前方に夕日に染まった妙義
物語山伝説の舞台メンベ岩は
この左、 西峰の下。
物語山本峰は右へ

4.
17:25
物語山山頂1019m
北面だけの展望が得られる

5.
浅間山方面。

6.
下仁田町と妙義山

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登山口16:40→17:25山頂17:30→18:00登山口

門前払い谷川岳の帰り、山と渓谷2月号で紹介のあった群馬県下仁田町「物語山」に行ってみることとした。 国道254号線経由で下仁田町に入ると名物下仁田ネギの直売所やこんにゃく料理の食堂が目に付きます。 地図を見ると登山口は、サンスポ前から橋を渡ったところにあるサンスポーツラドン下仁田からのようで ある。サンスポからの林道入口には車両全面通行止、林道丹沢線、崩壊のため当分の間、 下仁田町長とあったが行けるところまでと車で入る。雪はまったくない。 沢沿いのガタガタ道をまだ行けるまだ行けるで結局、終点写真1.のところまで入ってしまった。 歩行時間にして約1時間のズルである。

16:40熊に注意!の標識を見て咳払いをし、手を打って登山道に入る。 沢を渡り杉林の急登となる。少し足場の悪い個所にはロープが張られており安心である。 杉林を抜けると背に夕日を受ける、葉を落とした雑木林のジグザグ道が続く。 木琴石と呼ばれる平べったい石や一足毎に土ぼこりが上がる道である。炭焼き釜であろうか2個所が登山道 にあった。後方に日が沈む荒船山が見えるが雑木林の切れるところがないので私のデジカメでは 写らない。一応撮ってみたがやはり写っていなかった。

17:15鞍部に到着。前方に夕日で真っ赤に染まった妙義山が見えるがここでも雑木林が邪魔である。 これも、一応撮ってみたがやはり写っていなかった。 葉が落ちているから見えるのであって茂っていればほとんど見えないのではないかと思う。 展望のあるところから全山赤く染まった妙義を見たいと、沈む夕日と 競争の登山でしたが冬木立の合間に見える妙義は下から徐々に 黒くなる、気はあせる、写真撮るには木立が邪魔。 輸送船のへさきがごとき山容の背後の荒船に日が沈む、これがまたいい。
お日様は徐々に沈む、気は焦る、ここでも写真撮るには木立が邪魔。 山頂直下の鞍部からは駆け足状態。木立の間からはずっと妙義が見えるが 木立の切れる場所がない。急げ、急げ。 日が沈むのがやけに早く感じられる。

17:25山頂だ。だが、遅かった。 片側だけが展望の開けた山頂には、もう10分いやもう5分早く着けば 真っ赤な妙義と浅間が見られたはずである。
17:30 下山
18:00 登山口着。 薄暗いが頂上はまだ見える、反対側に半月がくっきり。
今度、荒船山、物見山、大桁山、稲含山などを訪れてみたいと思った。

物語山「メンベ岩」の伝説
1.戦国時代、敵の手を逃れて「メンベ岩」にたどり着いた武将が藤づるを頼りによじ登ったものの、追手を 恐れて藤づるを切ってしまい自分が下りられなくなりそのまま命尽きた。
2.お宝を「メンベ岩」の上に隠して藤づるを切ったら誰も取りに行けなくなった。宝探しに登ろうとしても みな落ちてしまう。
3.1.と2.をたしたような話。
物語山の山名となった物語は「メンベ岩の伝説」以外にもあるのではないかと思っています。

下仁田温泉「荒船の湯」:月休み


茂左衛門地蔵尊(もざえもんじぞうそん)
谷川岳の帰りによった群馬県利根郡月夜野町にある「茂左衛門地蔵」の話です。
上毛かるた発行五十周年記念協賛事業::天下の義人茂左衛門

茂左衛門地蔵尊由来によれば、今からおよそ三百年前のこと。上州沼田領三万石の城主真田伊賀守信直 (さなだいがのかみのぶなお)は、華美放漫の政治をした為に藩の財政は窮乏したので、これを立て直し のため領民の苦境をも考えず、寛文年間、再度にわたり無理な検地をして三万石を十四万四千二百十三石 二斗二升四合と、約五倍の増税をし、そのうえ凶年続きで困苦のどん底にある百姓から諸税をかけ、 滞納者には残酷な刑罰に処した。

この惨状を見るにしのびず利根、吾妻(あがつま)勢多(せた)の百七十七ケ村の領民のために一命を 捨てる覚悟で立ち上がったのが、月夜野の百姓茂左衛門である。
茂左衛門は姓を杉木(すぎき)といい義気に富んだ中流の百姓であった。天和(てんな)元年(1681) 正月、領主真田伊賀守の非行、領民の惨状をしたため訴状を懐にひそかに江戸に上り、上野輪王寺宮 (うえのりんのうじみや)から将軍家へ巧妙な方法で、直訴に成功した。

時の将軍(五代綱吉)は取り調べの結果、罪状が明確なので伊賀守は改易となり沼田城は破却の運命と なった。茂左衛門は本望をとげたのを見届けたので、ひそかに郷里に帰り妻に別れを告げ自首を決意して 江戸に向かうところ、小袖坂(こそでざか)で幕吏(ばくり)に捕らえられ江戸送りとなり取り調べの 上、所成敗(ところせいばい)となり、天和二年十一月五日、月夜野竹之下河原にて磔の刑に処せられた。

領民はその死をいたみ刑場あとに地蔵尊を建て、供養を続けて、その遺徳をしのんできたが、大正十一年 旧領地をはじめ各地の篤志家からの浄財に依ってここに茂左衛門をまつる千日堂が建立されたのである。

・小袖坂茂左衛門地蔵尊奥の院は町文化財として保存され黒岩八景と共に観光資源として大きな役割を 果たしています。
縁日:毎年春分の日、秋分の日
月夜野町観光協会・茂左衛門地蔵尊運営委員会

真田伊賀守信利(のぶとし)は幸村の兄信之の孫。 信澄ともいう。※茂左衛門地蔵尊由来の信直も同一人物と思われます。
寛永十二年(1635)信吉の次男として生まれる。同十六年、前の年に没した兄熊之助(沼田三万石の藩主) に子がなかったので、旧領のうち五千石を分与される(沼田二万五千石は叔父信政に与えられた)。 明暦二年(1656)十月晦日、信政が本家(信濃松代)をついだので、沼田二万五千石を与えられ、三万石を 領した。翌年初就封する。

天和(てんな)元年(1681)十一月二十二日、助役していた両国橋架け替え工事の用材の搬出が遅滞した ことを直接の理由に、その他、日頃の不行跡、藩政も良くないと除封された。出羽山形藩主奥平家に お預けの身となり、元禄元年(1688)没した。

長男信音も父に連座して播磨赤穂藩主浅野家に預けられ、元禄元年赦免されて一千俵を与えられる。 その二代あとの政之丞のとき追放され、絶家となった。
ちなみに浅野家の取り潰しは元禄十四年(1701)である。
: 歴史読本'80-6臨時増刊:特集、徳川幕府の大名取り潰しの実態!大名廃絶総覧 : 特別企画 「廃絶大名300:村磯栄俊」

てなわけで、茂左衛門地蔵と「NHK元禄繚乱」につながりがあることを知りました。
両国橋架け替え工事の用材の搬出が遅滞し、取り潰しになったことや長男信音も父に連座して 播磨赤穂藩主浅野家に預けられたことが元禄繚乱の場面にも登場しました。取り潰しは日頃の不行跡、 藩政も良くないとの理由もあったことが茂左衛門地蔵尊由来から想像できます。
上野輪王寺宮から将軍家へ巧妙な方法で、直訴に成功した。このくだりをもう少し詳しく知りたい。 機会あれば沼田市や月夜野町の歴史資料館を訪ねてみたい。


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