覆盆子城跡
いちごじょうせき 892m長野県四賀村〔1/25000地図〕信濃西条
〔別名〕矢久城・召田城・一期城
20060324(金)晴れ 画像はこちら

召田城(覆盆子城)
会田城の支城で、天正11年小笠原氏の進攻に対して急造した新城で、別名を覆盆子の城という。 覆盆子(いちご)は一期(いちご)をとげるの一期で、会田氏一統の亡びた城である。 この城は会田城より小県郡に近いため小県方面への退避を予定しての築城と思われる。:四賀村誌

【道順・駐車場】
国道143号線、四賀村召田の交差点を山側へ、少し行くとバス停本村がある。その先、右手に見える一軒家への道がある。 その入口付近に道広部があるので、車はここに置く。
【コースと時間】
出13:40→13:50登り口→14:10覆盆子城跡14:15→14:35四阿屋山神社→14:50覆盆子城跡15:05→15:25着

一軒家への道に入る。 この家の屋号は「いちご」だと聞きました。いちごさんから少し行くと、召田家の墓地があって、その後ろに、 止め山の張り紙のある細い尾根道があるのでこれを登る。かなりの急坂だが、止め山テープに沿って登れば覆盆子城跡に着く。 「覆盆子城跡」の漂柱がある。石垣はないようだ。 樹間に虚空蔵山が見える。城跡に続く一番長い尾根、虚空蔵山方向への尾根に数段の曲輪が確認できるが、明瞭な道はないよう である。 搦手がわの尾根を行くと、そこに平地があった。右手からの長越集落からの道と思われる道?があった。 もしかして、これが、一般的な登城道ではなかろうか。 その反対側は、昔、作業道だったのかも知れない、と思える道の跡があった。 軽自動車なら入れそうな巾だが、長いこと使われていないようだ。廃道か?。 更に尾根をたどる。止め山テープの松林である。馬場かと思わせる広く平らな場所もあった。

そして、先ほど確認した「四阿屋山神社」に着く。 落城の際に、お城から尾根を登って、この神社にお参りをしてから、小県方面に逃げていった人もいたであろう。 会田氏は、四賀村方面に勢力をはった一族だったが、天文22年(1553)4月、武田勢の火攻めにより、 降伏して武田氏の家臣となった。 信玄に、「命は助けよう、領地も今まで通りとする。そのほうの働きによっては・・・・じゃ、ふふ」 なんて言われたことでしょう。 となると、家名存続のため、武田の一武将として、信濃守護の小笠原氏など反武田方を攻撃することになる。 それも先頭になって、いや、ならされて。 つまり、昨日の主君や友で同じ信州人を、今日は敵として戦わざるを得なかったのである。 究極の選択であっただろう。武田がそのまま栄えれば、会田氏も安泰だったかも知れない。 ところがぎっちょん、そうは行かなかった。

頼みとした武田氏が滅亡してしまったのである。 県外に亡命していた小笠原氏が、信長の支援も受け松本に復帰する。 となると、風向きは一変。 「よくも、あのときは。にっくき会田め、やつだけは許せねー、根絶やしにしてくれるわ」 と、今度は小笠原氏と反武田方の攻撃を受けることとなった。 天正10年 (1582)、本城は落城し、最後はこの覆盆子城 で滅亡したのである。 会田氏につき従った土地の人、一百姓も、同様の運命をたどったことであろう。 戦国時代の世のならいとは言え、悲しい物語でもある。このような事例は、戦国時代にはよくあったことである。 その点、真田くんは良く立ち回ったもんだなー。 この場合、俺ならどうする、あなたならどうする、 てなことを、想像しながら歩くのである。 帰りは、城跡から往路を戻り、途中から「いちごさん」裏へと下った。こっちの方が幾分緩やかだった、 だが、降り立った場所は笹とヤブに覆われていた。

【温泉】
四賀村 東山館 \350


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