平倉山
ひらくらやま 823m長野県小谷村〔1/25000地図〕雨中
平倉城(小谷城)
20050615(水)この時間は、今にも雨が降りそうな空模様だった。だが、その後快晴となった。 画像はここに

平倉山は小谷村にある小さな山だが、向かいにある立山と同様に麓からそそり立つ山容が目を引き、 案外目立つ里山である。かの有名な雨飾山への入口にあるので、雨飾にお越しの際は視線を少し左の方にも向けてもらいたい、 と思う。道の駅「小谷」にある観光パンフレットには、次ぎにように紹介されている。 「飯森十郎盛春が武田勢に攻められ、上杉軍の助けも間に合わず落城。(村史跡)」 県境にあって、否応無しの戦乱に巻きこまれた飯森氏の心境は、いかばかりであったであろうか。

対岸に聳え立つ、標高824メートルの平倉山、 その山の中央より上方西斜めに三段になった城址がある。 上段、中段、下段の三段式の築城で向って左斜下には 婦人等の居た局(つぼね)屋敷跡がある。 下段は東西が25間、南北12間、中段は東西20間、 南北5間、上段は東西15間、南北3間である。 かつてここに小谷城がそびえ、小谷七ケ村の領主 飯森山城守平盛照が在城した。 応永のころ(室町時代)であろうか。 降って、飯森日向守盛春が上杉によってこれを守っていたが、 武田信玄の武将山県昌景に攻められその旗下、 曲淵庄左衛門のため打死。 城はついに落つ。時に弘治3年7月5日という。 この落城にちなむ、哀話、伝説、地名等は、 城の周辺はもとより北小谷の戸土の辺まで点々と残っている。 :史跡・平倉城址遊歩道案内

【道順・駐車場】
松本市〜大町市〜白馬村ときて国道148号線、長野県小谷村の「小谷温泉」の信号を小谷温泉・雨飾山の登山口の方面に行く。 最初のバス停が「白岩」で、黒倉集落への分岐のところに「史跡・平倉城址遊歩道案内」がある。 先ず、この案内図を確認すると良い。 案内図の最奥まで車で行くこともできる。最奥の民家前に駐車スペースがある。 一度最奥まで車で行ったが、入口が分からず引き返す。黒倉集落の入口に中谷川にかかる黒倉橋があり、 橋の手前左に空き地があるので、ここに置かせていただきました。
【コースと時間】
黒倉橋6:35→切った屋敷案内→6:50平倉城址遊歩道入口→6:55平倉神社→7:05巡視路分岐→ 7:15鉄塔分岐→7:30石祠→7:35平倉神社(城址)→7:45平倉山7:55→8:20鉄塔→8:30巡視路分岐 →最奥の民家下→8:45平倉城址遊歩道入口→9:00着

案内図には「切った屋敷、秋葉様、局屋敷、平倉神社(城址)、祠、 首かくしの洞穴、平倉山頂上(824m)、平倉城の飲用水」の記述がある のでこれをたどることとする。黒倉橋を渡ると「←平倉城址:松葉の湯→」の道標がある。 はて、松葉の湯とは?。温泉だろうか?。小谷村の観光パンフレットには載っていない。 こういうところには「日帰り入浴できます。\000」と書かれているとありがたいのですが。 少し行くと「切った屋敷」なる案内がある。案内だけ読んで場所に行くのはパスする。
切った屋敷(正面山裾)
平倉城を攻落した後、 武田方では一門一族の残党狩り を行い生き残った者、 傷付いたものを捕えて男は皆切ってしまった。 その場所を切った屋敷と言っている。 この時、武家のお婆さんは 十才位の男の子の孫を救うため女装をさせ、 検分役人の前へ引出された時、 男根を股から後へ廻して押へ、 女と見せかけて難をのがれたとの事である。:小谷村

道祖神やらケヤキの大木を見ながら集落内を行く。正面にグイっと立上がっている山が平倉山だ。 道の左に「平倉城址遊歩道入口」の標柱が立っている。 あまり歩かれていないと見えて、草も茂っている。 入るとすぐに、畑の跡か石垣のある平地があって、その先に神社があった。 この神社は平倉神社で、もとは城跡にあった神社を麓に移したとのことらしい。 神社の左脇から少し下って、橋を渡る。 下草道から杉の林に入る。 右から合流する道があって巡視路道標8が立っている。案内図にあった、最奥からの道のようだ。巡視路でもある。 さすがに巡視路、下草はきれいに刈られていた。これが実にきれいに刈られていました。 見事なケヤキの古木がある。鉄塔のある分岐に着いた。 鉄塔の周りは伐採されており、展望が良さそうなので 帰りによることとする。 分岐からは1分くらいなので、帰りに立ち寄った。遊歩道では一番、展望の良い場所である。 向かいの山、「立山」の山腹に点在する家々をみることができる。目が行くのは最奥の青い屋根の家である。 急坂となって尾根に出る。巨木が目につく。これが秋葉様でしょうか、 杉木立の下に小さな石祠が一つ。草の茂る、左山腹道となった。ゆるやかに下っている。 杉木立の中に入ると、そこが平倉神社(城址)だった。展望はない。 二段三段の削平地は杉林になっている。荒れた神社があり平倉の神社、局屋敷、平倉山の合戦の解説板が立てかけてあった。 神社の後ろにも小さな石祠が一つ。城より50m下の局屋敷はパスする。平倉山の合戦を読んでいて「ははぁーん」とうなずける ところがあった。以前、跡杉山に登ったときに「貝の平」や「地だんだ」の標柱があったことである。 確かに、この城に火の手が上がったら跡杉山の辺りからは見えたと思われる。

平倉の神社
落城後何年か後、黒倉部落の人達によって 飯森十郎を平倉十郎と呼び平倉様として祀り穀物の神 である倉稲魂神をも併せ祀って部落の繁栄を祈っている。 毎年5月5日にお祭りが行なわれる。:小谷村

局屋敷(城より50m下)
城主の奥方を中心として、 これに仕える婦人等の屋敷跡である。 小石が敷かれてあったのが見つかっている。 上段中段下段と三段になって居る。 (つぼねの平と言う) :小谷村

平倉山の合戦
上杉謙信と武田信玄が川中島で一騎打を演ずる 五年程前の弘治の昔、既に深志城を手に入れて 徐々に勢力を北に伸ばしていた信玄は、 山県昌景を将とする軍を、先ず白馬村飯森に 陣を張る飯森十郎盛春を攻略した。 衆寡敵せず敗れた盛春は一旦越後に脱れ謙信に頼った。 その後、この平倉城を治め、小谷五人衆に応援を求めた。 しかし既に武田方に通じている五人衆の内 四人は承知せず最も越後と関係の深い山岸氏だけが応じた。 盛春は四人の中の最も強硬な田原主馬を殺して 他の三人を服従させようと企てたが、 主馬に念を受けた昌景は直に軍勢を率いて 平倉に攻め寄せた。城兵よく奮戦したが、 山上の狭い地積で兵糧や水に恵まれない山城では 永い籠城は無理である。白米を馬の背にかけ 水の豊富さを敵に示さんとした計も空しく、 弘治三年七月五日、城はついに落城の悲運に見舞われ、 盛春はじめ城兵の殆んどは討死した。 この時盛春の姫は名馬にまたがり一鞭あてて 平倉山から中谷川を跳び越えて 館山の麓までいき、姫川の深淵に身を投じて果てた。 ここは今も、姫が淵と村人は呼んでいる。 盛春の墓は中土の玉泉寺の本堂裏にある。 なおこの時、上杉の援軍は地蔵峠を越えて深原の 上の「貝の平」まで来たが、前方に燃え上がった 兵火をみて平倉城の陥落を知り足どり重く引き返した。 :城跡の解説板

ここからは手も使う急な登りになった。 草やら枝にすがって登る。一時だが、急である。外から見た山容通りの登りだ。 堀切のようなところも見受けられる。 コケが覆った岩が現れ、その岩を「よっこらしょ」と上がったら「上杉の援軍」の解説板があった。 風も出てきて、今にも雨が降りそうな空模様である。展望は良くないが、岩から下を見ると、すぐ下に自分の車が見える。 岩の下に岩穴がある。奥はどうか分からないが、人が入れる大きさではない。 これが案内図にあった「首かくしの洞穴」でしょうか。それとも、単なる岩の重なりの隙間でしょうか。 穴に手を近付けて見たが、風穴のような冷たい風は出ていなかった。 合戦の際に首を投げ込んだ穴、と言われればそうとも思える。どなたかファイバースコープで確かめて見ては、いかが。 新発見があるかも知れません。
上杉の援軍
上杉は盛春より、城危しとの報により 謙信は部下の将兵を援軍として遣わしたが 間に合わず、北小谷の深原の上まで来た 時落城の火の手が上り、無念の貝を 吹鳴らし、地だんだを踏んだと言われ、 そこを今だに、貝のびら或は地だんだと呼ぶ 地名が残っている。この時の援軍は深原の上 から、み坂峠の跡杉まで約3kにも及んだとの 事である。:小谷村

案内図では、首かくしの洞穴から平倉山頂上は離れて書かれているので、先へと向かって見たが、 ヤブとなって、この先に何かがあるとは思われない。下りになる地点で引き返す。 南北に細長いところだが、ここが頂上ではなかろうか。 今までは各所に解説板があったが、ここには「上杉の援軍」だけ。 と言うことは、まだ先に「首かくしの洞穴」があり「平倉山頂上」があるとも考えられる。 ここが山頂、この穴が、首かくしの洞穴でよろしいのでしょうか。 帰りは、分岐から巡視路を下った。 道は本当にきれいに刈られている。湿地には木道もあり、黒倉集落の最奥で最上部の、青い屋根の家の下に出た。 案内はないがこの辺りが、平倉城の飲用水といわれるところではないか。 右へ、草の中のワダチ跡あり。下ると舗装道に出た。つまり、ここが案内図にあるもう一つの遊歩道入口であろう。 さて、気になっているのは松葉の湯である。どなたかご存知の方は、情報をいただけませんか。 下山後、向かいの「立山」に向かうも、工事中とのこと。また次回とする。

松ケ峯に向かう。


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