和田峠は標高1531m、中山道一番の難所といわれる。下諏訪宿から和田宿までの距離は、中山道ではもっとも長い五里半(21.6km)もある。
以前、和田宿側から(といっても東餅屋から峠まで)歩いたことがあるので、今回は下諏訪宿
側から歩くこととした。西餅屋跡まで車で行くことができるが、少し付加をつけて「浪人塚」から歩くこととした。
それでも昔の旅人が歩いた距離に比べたらほんの一部でしかない。
歴史の道 中山道 古峠
中山道設定以来、江戸時代を通じて諸大名の
参勤交代や一般旅人の通行、物資を運搬する
牛馬の行き来などで賑わいをみせた峠である。
頂上に、遠く御嶽山の遥拝所がある。冬季は
寒気も強い上に、降雪量も多く、冬の和田峠
越えの厳しさは想像を絶するものがあったで
あろう。明治9年(1876)東餅屋から旧トンネル
の上を通って西餅屋へ下る紅葉橋新道が開通
したため、この峠は殆んど通る人はなくなり
古峠の名を残すのみである。
:文化庁 長野県 和田村
【道順】
長野県下諏訪町から国道142号線を和田峠方面に行くと、途中に「水戸浪士の墓」の道標がある。右に入ると
すぐに林道との分岐がある。右、会社の方の道を行くと浪士の墓がある。
新しいものや古い石碑がいくつかある。
和田峠峠5.1km、諏訪大社6.9kmの道標がある。
【駐車場】
浪人塚にある。国道は歩きたくない人は、西餅屋の跡の入り口に国道の路側帯チェーン着脱場があるのでここから歩くとよい。
【コースと時間】
浪人塚9:15→10:25西餅屋跡→11:05石小屋跡→水呑み場11:15→11:25古峠12:00→12:35西餅屋跡→13:25浪人塚
浪人塚
ここは浪人塚といい、今から120年前
元治元年(1864)11月20日に、
この一帯で水戸の浪士武田耕雲斎たち
千余人と松本、諏訪の連合軍千余人が
戦った古戦場でもある。
主要武器はきわめて初歩の大砲十門
くらいづつと猟銃少しだけで、あとは弓、槍
刀が主要武器として使われた。半日戦に
浪士軍に十余、松本勢に四、諏訪勢に
六柱の戦死者があり、浪士たちは、戦没者を
ここに埋めていったが、高島藩は塚を造って
祀った。碑には、当時水戸に照会して得た
六柱だけ刻まれている。明治維新を前にして尊い人柱
であった。:下諏訪教育委員会
先ずは浪人塚に一礼して歩き出す。この後の水戸浪士は、悲惨な末路をむかえることとなる。
このことは「天狗争乱:吉村昭著」に書かれている。
すぐに142号線に出る。
国道を行くと水準点があった。歩いていると、
車では気付かないことを目にすることになる。道の脇は空き缶、ペットボトル、
弁当クズや雑誌などのゴミが捨てられ、
一部のドライバーのマナーの悪さが目に付くのである。早くも国道を歩くことにしたことを後悔している私であった。
かといって、引き返すのは時間の無駄。ひっきりなしに行き交う、車の排気を吸いながら、だらだらと峠に向かう。
普段は山道ばかりで、国道を歩くことのない私である。歩いて旅をするバックパッカーの人達のことを思うのである。
あんたがたは偉い。
いいかげん嫌になったころ、道の脇に「中山道一里塚」の案内があったので、右に入って見た。
だが、それらしいものは見つけられなかった。再び国道に上がると、左にチェーン着脱場があって、
歴史の道、旧中山道遊歩道の入り口、西餅屋跡がある。
西餅屋茶屋跡
西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿と和田宿の五里十八丁の峠路に設けられた「立場」(人馬が休息する所)であった。
中山道は江戸と京都を結ぶ裏街道として重視されていた。ここは茶屋本陣の小口家と武居家、犬飼家、小松家の四軒
があり、藩界にあったので、ときには穀留番所が置かれた。幕末の研沢口合戦のときは、高島藩の作戦で消失されたが
、すぐに再建された。現在は道の「曲之手」(直角な曲り)と茶屋跡が残っている。:下諏訪教育委員会
和田峠1.5k、中部北陸自然歩道の標柱がある。送電線鉄塔の巡視路でもある。入ったところに二体の石仏があった。
車道にでる。
再び車道と交差する。車道に近いところの道は、やはりゴミが目に付く。
開けたヨモギの平らにでる。
目印の白い柱が20m置きに立つ。
カラマツ林に入る。登るほどに急坂となる。
昔の旅は旅そのものが山登りだったのである。
かってこの道を、音次郎や半次郎、時次郎、紋次郎などが歩いたのであろう。
いや、次郎ばかりではない。伊太郎や弥太郎、忠太郎や仙太郎、鯉太郎もいたであろう。などと思うのである。
しばらく行くと、石小屋跡があった。
石小屋跡
中山道の古峠は、標高1600mの峠で難路で知られていた。下諏訪側の峠近くは急坂で風雪の時は
旅人も人馬も難渋した。大雪の時には雪掘り人足も出動した。下原村の名主藤五郎は、安政二年(1855)
に避難場所と荷置場を造ろうと、幕府奉行所に口上書を差し出し、馬士の出金、旅人の等の援助を乞うて、
五十両ほどで石小屋を築いた。石小屋は、山腹を欠いて高さ約2mの石積みをし、この石積みを石垣壁として
片屋根を掛けたもので、石垣からひさしの雨落ちまで2.3m長さ55mという大きいものであった。
人馬の待避所や荷置場には絶好の施設であった。その後、慶応三年に修理したが、現在は石垣の、一部を
残すのみである。:下諏訪教育委員会
ここから右方向に登って行くと水呑場があった。か細い筒から水が滴っていた。
全体が苔に覆われ、頭の欠けた石仏が一体と、かって水受けに使われたと思われる凹石がある。
急な登りを終えてきた旅人は、顔を洗い、汗をぬぐって、この水で喉を潤したことであろう。
そんな情景を思いながら、ここは一口飲んでみることとした。古い歴史の味がした。
Z 型に登り、小さなガレ場を過ぎると展望が開ける。そしてそこはツツジが満開の古峠であった。
こんなとこ誰もいないと思っていたが、いるもんですねー。一人の人が休んでいた。
峠には、当時からあった地蔵菩薩石像と石碑がある。御嶽山の遥拝所でもあったようだが、
はて、ここから御嶽山は見えるのだろうか。下諏訪宿も和田宿もここからは見えない。古峠や中山道の案内版
もある。
峠を挟んで一方のピークはスキー場の最上部である。以前、東餅屋から古峠を経て三峰山
まで行ったときにこのピークに立ち寄り、古宮山と名づけた。
古峠の古と山頂にあった丸に宮と彫られた石柱の宮からつけた名である。
もう片方は遊歩道があって、三峰山から扉峠、美ケ原方面にいける道がある。
峠は広々としており、草原にツツジが満開であった。さわやかな涼しい風が吹いて、
あちこちにチョンマゲ姿や旅ガッパ、馬や牛やらカゴカキ、クモスケ、ヒキャク。それと黄門様のご一行の姿が浮かぶのである。
峠の石を地蔵菩薩の周りに積んで、旅の安全を願ったことであろう。その積まれた石が賽の河原として地蔵菩薩
の周りに残っている。気持ちがいいので昼寝にかかるが、虫がよってきて寝てもいられない。あいにく今日は
防虫スプレーはもってこなかったのである。ならば、温泉にでも入って帰ろうと下山にかかる。
帰りの国道歩きはことのほか長く感じたし、第一膝にも悪い。
【温泉】
下諏訪町 共同浴場 児湯 \200
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